防災士インタビュー

東海林正祥さん

お仕事の内容をお聞かせください

 仙台市にある舗装工事会社、株式会社日啓工業に35年間勤務しています。工事部に所属し、現在安全管理者として従業員に対して技術及び安全指導を行なっています。また名取市消防団に25年間所属し、下増田分団の副分団長として地域の「安全安心」のため活動しています。

「東日本大震災」の際の被災状況についてお聞かせください

 「東日本大震災」では、沿岸部の仙台空港及び閖上地区、そして地元の北釜・広浦地区が壊滅的な被害を受け多くの尊い人命が失われました。私が所属する消防団の団員も20名が避難誘導活動中に殉職しました。
  自宅は、海から約5キロ離れた所にあり、津波の最終到着地点でしたので津波による直接の被害はありませんでした。しかし地震により屋根瓦の損壊、壁の剥がれタンス等家具の倒壊などの被害がありましたので、家の中は、足の踏み場も無いくらい散乱していました。妻と子供も会社勤めでしたので、それぞれの勤務先で地震に合いました。私は会社の各工事現場の巡回中で松島近辺の現場に車で着いた途端に地震に襲われました。車から降りられないほど揺れが激しかったので「これはただ事では無い」と思い現場作業員の安全を確認し避難指示後車で西の方向(仙台方面)へ逃げました。渋滞のため事務所に着いたのは約7時間後でした。通常1時間くらいしかかからないのに、停電により信号機もつかず道路も凸凹になり渋滞に拍車がかかったようでした。私の母は自宅に一人でいましたので、心配でしたが電話も通じず為すすべもありませんでした。妻と子供に対しても同様でしたが、携帯電話のショートメールで何とか安否だけは確認できました。あとから母は地元の消防団員により避難所に連れていってもらったことを聞き安堵しました。妻・子供も同様に自宅に帰ってきた後、避難所に行き車の中で一晩過ごしました。私が自宅に戻ったのは夜中でした。避難所へ行き家族の安否を確認してから、消防団員として地区の様子を見て回りましたが、津波はまだ引いておらず車で行ける範囲が限られたので、他の消防団員と共に道路規制をしながら一晩過ごしました。翌朝、自分が住んでいる地域の家を一軒一軒まわり皆さんの無事を確認した後、他の消防団員と共に被災箇所に入り冠水状態の中、孤立していた人たちの救助にあたりました。当時は無我夢中でしたが今思うと何人もの人たちを救助出来たことは、改めてよかったと思っています。
 現在消防本部では、消防職団員が避難広報活動中に亡くなったことを踏まえて災害対応マニュアルの変更、無線機の配備等防災体制の強化に向けて取り組んでいるところです。
 会社の方での仕事は、震災直後一ヶ月程度は道路の災害復旧工事に従事し、その後4月から今年3月まで宅地と農地の津波漂着ガレキ撤去業務に仙台建設業協会が一丸となって従事しました。大変な作業でしたが一刻も早く復旧しようとみな必死でした。私は昭和53年6月の宮城県沖地震も経験していましたが、今回は比べることの出来ないほどの大災害でした。これから復旧復興には10年以上の歳月がかかるものと思われます。

なぜ防災士の資格を取得しようと思われましたか

 今は消防団員として地域の「安全安心」のため活動していますが、いずれ退団する時が来ると思っていた時、新聞記事で防災士という資格があるのだと知りました。折しも地元の町内会で自主防災組織を作ろうということになったのをきっかけに防災士の資格を取得して消防団員としての習得したものと併せて自分が生まれ育った地域のために貢献してみたいと思い受講しました。

今後の抱負をお聞かせください

 会社では、今までにも何度か緊急事態発生時対応訓練を行なってきましたがこれからは、事務所内での予防防災、現場での予防防災の必要性を教育していきたいです。また経営者側とBCP及び地域貢献について一緒に共に考えていこうとも思っています。
 また町内会組織においては、まずは個々の家庭での家具の固定、防災倉庫に資機材の常備、「率先避難者たれ」等の重要性を説明して防災意識の向上に努めたいです。
 資格を取得したと言っても、まだまだ分からないことばかりですのでスキルアップのため防災士の会合・研修に出て行き研鑽を積んで地域の防災に役立てていきたいです。

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