防災士インタビュー

深澤友紀さん

お仕事の内容をお聞かせください

さまざまな現場に行き、たくさんの人と会い、話を聞き、記事にする仕事です。私は沖縄県を中心に日刊紙を発行する琉球新報社に2005年に入社し、運動部、社会部、八重山支局長を経て、2011年4月から整理部に所属しています。現在はニュースの大きさを判断し、見出しを付けたり、紙面をレイアウトする仕事をしています。
 社会部や八重山支局では、災害のたびに現場に行きました。台風や大雨のときや津波警報が出た場合などは、身の安全を確保しながら現場に向かいます。八重山支局では記者が1人のため、過酷な状況の中、情報収集や車の運転、写真撮影、原稿書き、記事送信などをすべて行わなければならず、常に気を張りつめていました。

なぜ防災士の資格を取得しようと思われましたか

私が「防災士」の存在を知ったのは、八重山支局時代、東日本大震災の支援やボランティアの取材をしていたときに、「石垣島で第一号の防災士が誕生した」と聞いたことがきっかけでした。直後に本社に異動しなければならなかったため、防災士になった方を取材することはできませんでしたが、調べてみると、とても興味深い資格だと思いました。
 私自身も災害を取材する中で、自分自身がきちんとした知識を持っていないために、行政の対応の不備を指摘したり、住民に災害に対する備えや本当に必要な情報を伝えきれていないのではないかという思いがありました。そこで、防災士の資格取得を機に災害や防災を学び、読者や県民のためになる記事を書く力をつけたいと考えました。

防災士の資格で得たことを、どのように職務や地域での活動に役立てようとされていますか。

東日本大震災後、全国から東北に集まった記者たちが精力的に取材し、さまざまな情報を発信しています。被災地では新聞がぼろぼろになるまで熱心に読まれ、新聞の役割が再確認されたと言われています。記事の中には、被災者や国民の生きる力になるようなすばらしいヒューマンドラマもたくさんあります。ですが、被災後にいくら記事を書いても命は戻ってきません。本来は、例えば学校の避難マニュアルの不備や行政の防災対策が不十分な点、住民の意識の低さを指摘する記事を、大震災前に書くべきだったはずです。「命を救える報道」が必要だったのです。このことは防災士の講座でもあらためて痛感させられました。今後は、防災士の資格を持った新聞記者として、次の災害で全員が生き残れるための記事を書いていきたいと思っています。

今後の課題、抱負をお聞かせください

 「沖縄には地震がない」という誤った「常識」が信じられています。1階部分が支柱だけのピロティ建築も多く建てられています。ですが、過去の資料を見ても、マグニチュード(M)7~8の大地震も繰り返し起きています。特に被害が大きいものでは、1771年に八重山地域でM7.4(推定)の地震が起き、「明和の大津波」と呼ばれる大津波で宮古、八重山で計1万2千人が亡くなりました。八重山では住民の3分の1にあたる約9300人が犠牲になったと言われています。また、1998年には石垣島南方沖でM7・7の地震が発生しました。このときは津波警報が出たものの津波は10センチ以下だったため、被害はありませんでしたが、いつ大津波を伴う地震が起きてもおかしくない状況です。
 新聞記者として、地域防災力の向上の手助けとなる情報発信や、行政がつくる地域防災計画のチェックなどやらなければならないことはたくさんあります。正しい情報発信ができるよう、これからも学び続けていきます。

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